溺レる魚と飛べない鳥

 お願いです。もっと好きでいさせてください。もっとたくさん、ずっとずっと好きでいさせてください。僕をあなたでいっぱいにして、どうかあなたに溺れさせてください。
 もう、息もできないくらいに。
「――イヅルは、自殺願望があんの?」


「ボクが、殺したげよか?」
「な……っ」
「やーめた」
「市丸隊長……」
「イヅル殺してもうたら、退屈やもん」


「なぁ、イヅル?」
「ボクはイヅルの神様にはなれへんよ」
「イヅルのこと裁いてあげられへん。イヅルの絶対にもなれへん」
「ボクは――ただの、死神や」
「――ごめんな。楽にしてあげられんくて」



 なんというか、こう、自己放棄衝動――の話。相手に自分のすべてをゆだねることができたら、相手のいいなりになるかわりに酷く楽になれる(宗教上の絶対者に対するのと同じで)わけで。しかしそれを神でもなんでもない一人の人間に対して望むことはとんでもなく危険で、相手だって重荷になるはずで。イヅルが楽になれるんだったらそれでもいいかなとか思う市丸と、自分の衝動が何であるかわかっていてギリギリのところで踏みとどまってるイヅルの話。



を、書きたいなぁと思いました。



市丸がそうなら東仙要も割とそういう対象になりがち。檜佐木も『東仙隊長』にある種の夢と期待と幻想(といってもよいなら)を持っていたひとりだと思う。もちろん助けになりたい一緒に戦えるくらいに強くなりたいという気持ちと単純に慕う感情もあっただろうけれどでも、だから『東仙隊長』じゃないあの姿ならば倒せたんだといってしまうのは乱暴かな。


以前紗々さんの書かれる東仙はキリストのようですねといわれたことを思い出しました。私も彼に勝手な幻想を持っていたひとりです。
追記・それでも好きなんだ…!(泣く)