業と行というのは違うらしい。私にはその違いがわからなかったので、あるとき、辞書をひいたのだった。
そこには「業――仏教の基本的概念のひとつ。サンスクリット「karman」カルマの訳。本来は行為の意味。」「行――行為・行動であるから業(ごう、karman(कर्मन्))と同義に使われ、身口意の行いを「行業」という。」とあった。
同義語であるように書かれていたが、やはり少し異なる意味合いをもつように感じた。


ならば、どこが異なるのであろうか。
私があの少女に犯され続けるのは、果たして業であろうか、行であろうか。




暑い夏だった。暑くなくてはならない夏だった。


窓の外で鳴く蝉どもよ早く死ねッと心の中で罵り、何重かもわからぬ生死を賭けた合唱を遠く聴く。私は彼女のひろげた足の間に顔をうずめている。頭を下にし、いわゆるシックスナインの姿勢に似ているが、私の腰のものを相手は舐めていない。舐める気もない。


車の後ろ席である。私は運転席のシートをできるだけ前に動かし、背もたれと席の間の足置き場にからだを押しこんでいる。膝立ちであるからズボンが汚れる。黒の制服は、雇い主である彼女の祖父から支給されたものであるから汚れても別段構わぬようにも思うし、拙いようにも思う。 


車中は、せまい。彼女は後ろ席に横たわっている。私はこのような姿勢をとるしかないのである。


冷房が効いているにもかかわらず私のこめかみからは汗が伝って彼女の太股に落ちた。


彼女は声をあげない。不浄の肉は鉄の匂いがする。血の匂いがする。片足首に引っかかった白い下着からは小便臭い、幼い匂いがする。学生服につつまれた若いからだは、おんなと少女の間を行き来している。不安定である。精神ともに、安定しないので、彼女は私にこのような行為をさせるのかもしれなかった。


頭に血がのぼっていくような気がするのは、欲情ゆえではなく、無理な姿勢をとりつづけているからである。もよおしてはいるが、どうにも性交とは結びつかない。単なる反射である。
彼女が私の肉棒をつかむことはない。彼女の火陰(ほと)にいきり立ったものをねじこんだことも、一度もない。


鼻の奥がつんとした。肉の裂け目に鼻面をつっこみ、舐めているせいであった。人間ではなく犬であると思った。汗と愛液と涎が入り混じったものが鼻の穴から入りこんできて、奥まで流れこみ、行き場をなくして、もときた穴からぱたぱたとこぼれた。


以前、学生生活を営んでいたころ私は寮住みであった。同室の生徒に誘われそそのかされ最後には脅されて、彼のものを口に含まされたことがあった。あのとき、喉の奥までくわえさせられ合図もなしにほとばしった精は、やはり、逆流して鼻から流れ落ちたのだった。


以来私にとって「鼻の奥がツンとする。」という表現は、感極まる際に使われることばと知りながら、水っぱいものが実際に逆さに流れこむ物理的な現象を指す。
ひとがこのことばを使うと、同級生の若い精の匂いと味を思い出すのである。



私は同性愛者ではなく、少女愛好者でもない。
しかしそれは私が正常であるかどうかの判断基準にはならない。