ワールドディスタンス
3_月_のライオンでは島田八段がいっとう好きです…!別ジャンルですがよろしければお茶請けにでも。後藤×島田風味。
- 作者: 羽海野チカ
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 2010/04/09
- メディア: コミック
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あの、ワールドワイドに、世界レベルの隔たりがあると思うんですが。今のオレたち。
でも考えてみてくださいよ、たとえ国境や言語や宗教の壁があったってやっぱり同じ人間なんすからお互いわかり合える瞬間って絶対あると思うんですよね。たとえば単純に一緒に酒を飲んだらうまかったとか。それこそ一局指すとか。棋士冥利に尽きるでしょう微力ながらも世界平和に貢献できるって。最高ですよ。
ええはい、バカにされてもいいです偽善者扱い望むところ、オレはまだ人類にそれくらいの希望は持ってますから。
誰かさんと違って。
しかし困ったことにね、同期や先輩後輩、弟弟子、故郷のおんちゃんたち、講演会ファンクラブのみなさん。すべてすべて愛おしく思えるこのオレが。博愛主義もいい加減にしろよ島田てめえいつか痛い目見るぞつうかオレが見させてやろうかと誰かさんに凄まれ脅されたそのオレが。
あんたのことは大ッ嫌いなんですよ。
どうでしょう、そこんとこどう思います後藤さん?
──と、問いたくても問えない(理由・顔が怖いから常にヤクザオーラ全開だから腕ッ節じゃ絶対負けるし確実に毒舌を乗せてのされるから・ああハイハイまず見た目でわかりますよねえーオレらのウエイトの違い、うん、わかってくれてますよね?)相手に理由もわからず翻弄され続けて早数ヶ月、それでも将棋は、すべてを賭けてきた将棋だけは別で、獅子王戦の予選で後藤九段に凝縮された力技で(と、自分でいってみる今となっては哀しさをともなった自画自賛)辛くも勝利して、そして──肝心の本戦はというと思い出すだけで胃が痛むほどのボロ負け。
四タテくらいましたそうだなもっとダメージでかい言い方を探すなら──要は、ストレート負け。
七番勝負で四対〇。
完全な、完封。宗谷、見事なり。
くやしいくやしかった、なんて、そんな単純な言葉じゃとてもとても追いつかないくらい、オレは極度の疲労と慢性的な胃の痛みを抱えて京都から戻ってきてそれから自分を──『自分の将棋』を立て直すのに必死になった。
『自分の将棋』ってなんだろう、なんだったんだろう、そもそも元からあったのか?
確固たる『島田開』の将棋が?
そんな、出口のない問いにさいなまれながら。
ぼんやりと目の前の盤を見つめる。夕日が差し込んで並べてある駒が陰りのある橙に染まっていた。
「ああ……洗濯物、とりこまなきゃな」
庭に視線をやった。男やもめに蛆が湧く、なんてことにはなりたくないし家事は結構好きだったりする。いい気分転換にもなるといつもならすぐに腰を上げていたのに。
動けなかった。
両手で頭を抱えてしばらくじっとしたあと、これじゃ何かに耐えているみたいだと笑って、いや実際耐えてんだよ、つらい苦しい痛いくやしい──。
けれどこの痛みはオレのものだ。オレだけのものだ。苦しさも何もかもオレが抱えて往くものだ、誰にも渡さない。
棋士が将棋で負けるということ。
どんなに周りが優しくしてくれても、激励の言葉をくれても、対局がはじまれば、一人。
そうだ、独りだ。そうやって指して指して指して。勝って負けてまた勝って。繰り返しのように見えて一回たりとも同じ将棋はない。終わりがない。果てがない。
これからもオレは歩み続けるんだろう。この道を。
ゴールの見えない、気が遠くなるほどの道を、ただ、往く。
(タイトル戦で負けたやつは、必ず調子を崩す)
誰のいったことだったか。
(ふんばることができなきゃ落ちていくだけだ)
うん、それは嫌だな。
ただ今はもう、あるはずの道さえ、霞んでゆらいで──見えない──。
「よお」
「──……ッ!?」
「何おびえてんだよ」
「あんたがいろんなとこでいろんなことするからでしょうが! つかどこから入ってきたんすか後藤さん!」
「鍵、開いてたぞ」
「あー……」
盗られるものもないと普段からあまり注意を払っていなかったことを、このとき心底後悔したが時すでに遅し。
「……で? ご用件は」
「ドライブ行こうぜ。車借りてきた」
葉山あたりまでどうか、という意味のことをのたまう。
「ああ、いっすねいっそのこと八景島シーパラダイスとかいっちゃいますか男二人で」
「なんだ、乗り気じゃねェか。本当にいくか? 水族館が有名らしいな」
「……水族館は、やめましょう」
「なんだよ、出てった彼女との思い出の場所か?」
「ええまあ、そんなとこです」
「……ふうん」
「ちょっとオレのサボテン返してくださいよ。大事に育ててだいぶ立派になったんすから」
あれなんだろう、目の前の男は明らかにいきなり不機嫌だ。
「え、なんすか後藤さん、ひょっとしてサボテンに興味が」
「島田、お前さあ」
目をすがめ、
「なんでオレにはいっつも喧嘩腰な訳?」
「…………は、い?」
ようやっと言葉の意味が理解できて。
次の瞬間、座卓に両手をついて叫んでいた。
「いや前は普通に挨拶とかしてたでしょうが! んであんたがその……まぁそのいろいろ、キ、キスとか抱きついてきたりとか、そういうのやりはじめて、そりゃ避けるでしょう全力で避けて通ってましたって!」
「そんでも周りのヤツらと一緒にいりゃあ、にこにこ愛想笑いしてきやがって」
ふん、とおもしろくなさそうに鼻を鳴らして、
「ムカつくんだよ、お前」
はぁ。
「その……この際だからはっきり訊いておきたいんすけど、オレの何がそんなに、後藤さんの気に障るんすか」
「あのガキはいいよな。お前の弟弟子の」
「二階堂っすか? ええ自慢の弟弟子ですから」
え? で? それがどうした? 話、飛び飛びじゃないかさっきから。
二階堂春信は下手をすれば親子ほど年の離れた師匠を同じくする十代後半の少年で、周囲からも格別に仲が良い、と認識されているし実際島田自身もあれやこれやと気にかけている。島田主催の研究会にも入っていて、とても熱心だ(たまにぶちたくなるほど熱心だ)
「ムカつく、あのガキ。立場利用してお前に懐いてまとわりつきやがって」
「ちょ、あの、ちょっとッ!」
二階堂を悪くいうな。
というか何をいっているのだろうこのオッサンは。
四〇いくつのいい大人が。
え? まさか嫉妬? もしかしてこれ嫉妬? そうなの? 嘘でしょう? でも、もし、その、そうだとしたら──。
──ごめんなさい勘弁してください。
「……なんで正座して頭下げてんだよてめぇは」
隔たっている。
なんだかもう地球規模で国境よりも遠い気がする。絶対税関通らない。
いやあんた何回ひとの気にしてる生え際のことからかいましたっけ? 会う度に悪態ついてそれのほとんどが毛根関係って棋士という前に人としてどうよ? しげしげと髪眺めながらオレより年上に見えね? とか! 覚えてんだよこっちはしっかりと! 根に持ってるからな! 毛根だけに……とか寒いギャグ飛ばしてる場合じゃないオレは辻井さんか!
そりゃねあんたに比べれば枯れてるかもしれないし恰幅でも男っぷりでも劣ってるでしょうわかってますよついでに女性にモテないってことも!
「そんなことないぜ」
「──は?」
「お前、結構モテてるっていってんだよ」
「……はぁ?」
どこの世界の話だろう、それは。少なくとも棋界じゃない、絶対にない。
ただ、なんだか。さんざん文句いって。怒鳴って。すっきりしたような気がした。
くやしいからいわないけれど。
「今日はこれくらいで勘弁してやる」
後藤さんは腰を上げた。今更のように茶も出さずにいたことに気づいたがやはり、時、すでに遅し。
「いい気分転換になっただろ」
──勘違いすんなよ力業で向かってくんのはお前くらいで、いつまでも腑抜けてもらってちゃ困るんだよ。
「後藤さんが強くなるために、俺を利用するつもりすか」
「棋士ってのは、そういう生き物だろ」
「確かに」
「じゃあな」
彼がいなくなったあと、思わずぷっと吹き出してしまった。
「……素直じゃねぇなぁ」
でもありがたかったかもです。